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カルナップ「世界の論理的構築」随想

カルナップすごーい。
8月25日(日) 23:52:50

大学の附属図書館の地下書庫でクワインのTwo Dogmas of Empiricismを見つけ、九州旅行に持っていった。読んでみたものの、そこで批判されているカルナップの理論をそもそも知らない。analyticな文とsyntheticな文を区分できないとクワインは主張するが、analyticな文がトートロジーのことでないとすると、いったいカルナップはどんな意味でこの言葉を使ったのか。分からないのが悔しくて、九州大学まで足を運び、図書館でカルナップのThe Logical Structure of the World(原題はDer Logische Aufbau der Welt)をコピーさせてもらった。休館日だったのに頭を下げてお願いしたら書庫から持ってきてくれたのは嬉しかった。

旅行中に読み終えられず、京都に帰ってきてからも読んでいる。Elementary experienceをbasic elementに、similarity(正確にはrecollection of similarity)をbasic relationに選んだconstruction theoryはどこまで行けるのか。とても興味が持たれる。他我の「存在証明」などは行なわず、それを論理的に構築constructできれば十分とする。存在するか否かではなく、論理的でありかつ経験に基づいているか否かが重要なのだ。論理的あるいは経験的に確かめられないような「存在」概念は、カルナップに言わせると「形而上学的metaphysics」であり、議論の対象にならない。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(LW)である。

特に面白く感じたのは、伝統的な質qualityと量quantityの対立に代わって、属性propertyと関係relationshipを対置させているところ。科学は属性を関係に置き換えることを目指すのだそうだ。実際、「青」や「赤」は属性だが、科学はそれを「波長の大小」という関係に置き換える。量とは関係である。なかなか優れた一般化であると思った。

さらに、「他我を構築するまでは自我は(我々が普段使うような)意味を持たない」という主張ももっともである。鏡像理論の論理実証主義版といったところか。


The Logical Structure of the World 読み終えた。追加の感想。
9月7日(土) 14:33:24

カルナップいわく、子供はobjectに対し、知覚以外の属性も与えていることが多い。たとえばリンゴに「赤い」や「甘酸っぱい」といった知覚的属性だけでなく、「おいしい」といった感情、「食べたい」といった意志なども属性として付与する。子供においては、知覚・感情・意志はいずれも広義のsenseとして同列に扱われる(page 206)。

子供がこの考え方を捨てるのは、「他人」概念が構成された後である。通常、知覚は他人の主張と矛盾しない。リンゴは誰が見ても赤い。誰が食べても甘酸っぱい。けれど、「おいしい」や「食べたい」は、人によって異なる。かくして子供は意志や感情をobjectに対して恒常的に付与することをやめる。

一方、Construction theoryでは広義のsenseがまずconstructされ、その後で「知覚」「感情」「意志」といった細分化が行われる。これは子供の発達過程と対応するとカルナップは主張する。

僕は思うらく。人はなんと他人に配慮しながら生きていることか。他人というものを知らなければ、僕の世界観は大きく異なったことだろう。

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カルナップはconceptという言葉を、「construction systemによってconstructされたobjectを指すword」という意味で使っている(page 295-296)。そしてconceptではないwordを使う分野として、imposition of will from person to person, in art, in the area of mythなどを挙げている。これは一般的なconceptの用法とかなり異なっていると思うので、注意が必要である。

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「metaphysical realはconstructできない」と主張されているが、その証明が必要ではないだろうか(page 283)。いくつかの方法がうまく行かないことを示したのち、いきなり「出来ない」と断言してしまっているが、それだけでは証明にならない。

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カルナップの挫折について。この本を書き上げた後、elementary experienceとrecollection of similarityだけからphysical objectを構築するのが予想以上に困難であると気付き、むしろphysical objectを基盤として世界を構築していくことに取り組んだらしい。と、クワインのTwo Dogmas of Empiricismに書いてあった。

ではもしelexとRsからのphysical objectの構築が「不可能」であるとすれば、それは論理実証主義にとってどのような意味を持つのだろうか。

たとえばそれは、科学は、経験によって確かめられない仮定をいくつも設けている(=カルナップが批判する「形而上学」になってしまう)ということだろうか。そしてそれらの仮定とelementary experienceを組み合わせて科学的推論は行われているということになるのか。

論理学の用語で言うと、basic relationにモデルを与えても真偽の定まらない命題があるということか。(その真偽はbasic relationとして選ばれたrecollection of similarity以外の関係にモデルを与えることでのみしか定まらない)。

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分析哲学は従来の哲学の問題の多くが答えられない問いであることを指摘する。
現代思想は従来の哲学の問題をうっちゃって、時代や社会の分析に取り組む。

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カルナップは何を目的としてconstruction theoryを作ったか。

Construction theoryの根底には、experiential experienceとrecollection of similarityがある。だが、誰もexperiential experienceを「知覚」することが出来ないのだ。なぜなら知覚はelementary experienceよりも高次の概念であるのだから。通常、我々が信頼し言及するのは、「知覚」である。それではなぜカルナップはわざわざexperiential experienceを持ち出したか。

「私が『今、見えたもの』について語る時、それはexperiential experienceについて語っているのだ」「『今、見えたもの』に関する言及は、experiential experienceに関する言及に翻訳できるのだ」と、カルナップならば主張することであろう。

何故そのような翻訳を行うかといえば、elementary experience間のrecollection of similarity関係は確定しており、真偽いずれかの値しかとらないからである。それはたとえばpage 292で「In keeping with the tenets of construction theory, we presuppose that it is in principle possible to recognize whether or not a given basic relation holds between two given elementary experiences.」という文においても主張されている。

「世界は論理的に構成されている」「elementary experience間のrecollection of similarity関係は揺らぐことがない」「ゆえに我々は命題の『真偽』を知ることが出来る」。

命題の集合を真と偽に分けるために、あるいは真と偽に分けることが可能であることを示すために、カルナップはconstruction theoryを作ったのだと思う。

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The Logical Structure of the Worldの最後の節はヴィトゲンシュタインの論考にそっくりだが、やはりかっこいい。いわく、

The "riddle of death" consists in the shock through the death of a fellow man or in the fear of one's own death. It has nothing to do with questions which can be asked about death,even if some men,deceiving themselves,occasionally believe that they have formulated this riddle by pronouncing such questions. In principle,these questions can be answered by biology (though presently only to a very small extent),but these answers are of no help to a grieved person,which shows that it is a self-deception to regard them as formulations of the riddle of death. Rather,the riddle consists in the task of "getting over" this life situation,of overcoming the shock,and perhaps even making it fruitful for one's later life. (page 297)

冷めているようでいて、前向きというか。氷を通して見る太陽のような、鋭く透明な明るさがある。すごく感動してしまった。


The Logical Structure of the World疑問点
9月6日(金) 0:36:58

The Logical Structure of the Worldを読みつついくつかの疑問点を感じたが、すべて読み終えたわけではないので誤解もあるかも知れない。その可能性を覚悟で、書き記しておく。

@ sense とnominatumは本当に区別できるのか。カルナップはsign、sense、nominatumからなる三階層のモデルを提起する。いわく、
1. 7はZやsevenとsignが異なるが、senseは同じ。
2. 7、Z、sevenは5+2とsenseが異なるが、nominatumは同じ。
construction theoryはsenseの違いを扱わない。ただnominatumの違いのみを論じる(pg 74)。

この区別は主観と客観世界の対立を前提としていないか。主観や客観世界をこれから構築していくという段階で、既にsenseとnominatumの区別を使ってしまうのは順序がおかしくないだろうか?。加えてカルナップは、上記の三階層と対応するlogical valueとepistemic valueを区別するが、これもまた主観と客観の対立に基づいてしまっている(pg 83)。

A Elementary experienceをbasisに置く理由が弱いように思った。挙げられている理由は以下のふたつである。

1.Epistemic primacy
2.Elementary experienceをbasisにして、実際に様々な概念をconstruct出来たということ

Epistemic primacyの判定基準としては、Indicatorの概念が用いられる。Indicatorは、それがindicateする対象に対してepistemic primaryの関係に立つという(page 89)。では、Indicatorとは何か。カルナップの定義は以下の通り。

The indicator of a state of affairs is a sufficient condition for the state of affairs.
でありかつ、
(Indicators) are ordinarily used to identify the state of affairs(page 82).

問題は、ordinarily usedがどのように判定されるかに移行される。「経験に基づいて」というような主観的な基準だろうか。さらに言えば、identifyの可否も観察者によって大きく異なるのではないか。

indicatorの例として、気圧と気圧計の関係が挙げられている。いわく、

『気圧計の目盛りが高いこと』は『気圧が高いこと』のindicatorになる。
『気圧が高いこと』は『気圧計の目盛りが高いこと』のindicatorにならない。

この判断は確かにindicateという言葉の一般的な用法に一致するように思われる。だが、すべての事例においてこのようにはっきりとindicateの妥当性を判定できるとは限るまい。indicateを使って良いのか悪いのか、判断が分かれることも数多くあろう。カルナップはどのような場合にindicatorとして相応しく、どのような場合に相応しくないのかの判別基準を示していない。「各自直観的に判断せよ」ということだろうか。それはあまりにも主観的に過ぎるのではないか。

B accidental overlapはessential overlapと本当に違うのか。

Essential overlapとは、例えば「視野上の点Iに青系統の色がある」というsimilarity circleと、「視野上の点Iに紫系統の色がある」というsimilarity circleの間に生じるoverlapである。重なり合いの部分には例えば「視野上の点Iに青紫の色がある」というelementary experienceが含まれる。

一方、accidental overlapは以下のように説明される。

aというsimilarity circleを考える。Aは点Iに赤系統の色を持つelementary experienceによって構成される。続いて、bというsimilarity circleを考える。bは点Jに青系統の色を持つelementary experienceによって構成される。さて、elementary experienceの中には、点Iに赤系統の色を持ちつつ点Jに青系統の色を持つものが少数ながら存在するであろう。これはsimilarity circle aとbの間のaccidental overlapである。

なぜこれがessential overlapと違うかというと、

it cannot be an essential overlap in this case, since a and b belong to different color solids and furthermore to different color ranges within the color solids.

と説明されている(page 132)。視覚はXY座標×色相×彩度×輝度で五次元だが、color solidはそのうちXY射影したものである。belong to different color solidsというのは、color solidが点ごとに(射影によって)作られるためである。

だが、different color solidに属する(=視野上の位置が違う)からessentialなoverlapではないというのは、color solid内の違い(=色相や彩度、輝度の違い)よりもXY座標の違いを重視していることから来ていないだろうか。

あとになって、慣用的に使われる個体individual概念が、時空間の順序とその他の順序の区別に基づいていると主張される(page 247)。つまり時空間は人間にとって特別な順序というわけだが、しかしいみじくもessential overlapはquality classを定義するのに必須の区分である。そのような段階に既に「時空間の特殊性」という基準が用いられてしまって良いのだろうか。(時空間やその他の順序を定めるのにquality classを用いないというのなら、問題は無いのかも知れないが)。


カルナップ The Logical Structure of the World 感想&部分的まとめ
9月5日(木) 19:41:55

科学の範囲について。

科学哲学勉強会で使用している内井忽七先生の「科学哲学入門」(世界思想社)と、カルナップとでは「科学とは何か」に対する答えが違うようにも思われ、興味深い。

内井先生の場合、科学とは「論理的な体系化と未来の予測」を目的に、「確率論的帰納法」を方法として持つ営みであると捉えられる。

一方、カルナップは科学の対象を直接経験experienceから論理logicによって構築constructできる存在物objectに限定する。目的や方法ではなく、使われる概念を制限することで科学の範囲を定めている。カルナップの言うobjectは、物理的存在物に限定されない。ゆえに社会科学や人文科学も科学の範囲に含まれうる。科学で用いられる概念をすべてconstruction systemでconstructすることで、「科学はひとつ」ということを示そうとしているのは興味深いと思った。

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使用による定義definition in useについて。

新しい存在物objectを導入する際、ふたつの方法がある。ひとつは明示的定義explicit definitionであって、新しい概念は既存の概念の連なりと置き換えられるものとして導入される。たとえば「白猫」という概念は「白い∧猫」として定義される(ただし、「白い」と「猫」は定義済みであるとする)。置き換えは命題(=文)の中で行われる。

一方、使用による定義definition in useでは、命題の真偽を参照しなくてはならない。LWによれば、世界は命題の集まりである。何が真で何が偽であるかは予めすべて決まっている。すなわち命題PaとPcとPdは真だが、PbとPeは偽、といったことは決まっている。そうして我々が(命題Paなどから切り離された)「P」という概念を得るのは、aとcとdを「集める」ことによってではなく、PaとPcとPdが真である、という事実に基づいてである。概念「P」はaとcとdを集めた全体wholeではない。aとcとdを「要素elementとして持つクラスclass」なのである。

Wholeとclassは以下のように異なる。
四本の指と、
四本の足と、
四台の車と、
四匹の猫。
これらを集めても、ゴミの山しか出てこない。そのようなゴミの山がwhole。一方、上記を要素elementとするclassは「四という数」になる。

使用による定義definition in useで定義された存在物は、定義に用いられた存在物とは存在物スフィアobject sphereが異なる。存在物スフィアが異なると、使用できる述語の種類が変わってくる。逆に、wholeはpartsと同じ存在物スフィアに属する。実際、「四匹の猫」と「ゴミの山」は存在物スフィアが同じである。そのため、「僕は四匹の猫を燃やした」と「僕はゴミの山を燃やした」については、真であるか偽であるかのどちらかとなる。つまり、「僕は〜燃やした」という述語の使用が許されている(permissibleである)。しかし、「四という数を燃やした」は真にも偽にもならない。このような命題はpermissibleではない。この違いは「四という数」が「四匹の猫」や「ゴミの山」と存在物スフィアが異なることから来ていると説明される。このため、definition in useで定義された存在物は「擬似存在物quasi object」と呼ばれることもある。だがこれは相対的な名称である。Pはaに対して「擬似存在物」であるが、aはまた別の存在物に対して「擬似存在物」であるかも知れないのだ。

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外延Extensionについて。

クラスPとクラスQがまったく同じ要素を持つとする。この場合、「PとQに共通するもの」を、PやQの外延extensionと呼ぶ。すなわちPやQの外延とは、PやQの要素の集まりなのであるが、「集まり」という言葉が曖昧であるため(wholeとの混同の危険性もあり)、あえて「PとQに共通するもの」という定義をとる。さらに、「PとQは共外延的co-extensiveである」とも表現される。

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基本的経験Elementary experienceについて。

Elementary experienceはconstruction以前には何らの意味も持たない。ただ存在するだけである。この状態を、Language of fictitious constructive operationsでは「inventory listのみが記載されている」と表現する。

Elementary experienceの間のrelationによって様々な概念が構築されて行く。同時に、作られた概念はcharacterization(=realistic languageにおける用語)あるいはobject description(=language of fictitious constructive operationsにおける用語)としてelementary experienceに付与される(page 182など)。